花札から始まった世界的ゲームメーカー任天堂の歴史

2013年9月19日、ゲーム会社『任天堂』の山内溥前社長が85歳で亡くなりました。
任天堂はどうやって世界的メーカーになったのか、1900年代から2000年代までの任天堂の軌跡を辿ります。


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任天堂の歴史は花札の製造から始まった!

1889年に木版工芸家の山内房治郎により京都で創業した『山内房治郎商店』。
これが後に世界的なゲーム会社となる任天堂の始まりでした。

日本で初めてトランプの製造をし、全国販売したところ、日本有数の花札・トランプ会社となりました。
そして1929年に2代目社長となった山内積良は、社内体制の合理化を図るなど、任天堂の基盤を確実なものにしていきました。


時は流れて1949年、2代目が病気で倒れたことから山内溥が3代目の社長に就任しました。

当時は大人向けだと言われていたトランプでしたが、ディズニーのキャラクターをあしらった商品を売り出し、ヒットさせました。
これを受けて、ボードゲームなどの子供向け玩具の業界に進出しました。


暗黒の時代を乗り越えて!1980年代にゲームがヒット

1962年に株式上場を果たした任天堂は、この頃から多角経営に乗り出しました。
しかし、その全てがノウハウ不足などにより失敗し、またトランプが売れなくなったため、倒産の危機を迎えました。

横井軍平の入社により、業績が一時的に回復しましたが、1970年代に入ってからも事務機器や育児用具などの業界参入に挑戦しましたが、全て失敗に終わりました。

1980年に携帯ゲームの『ゲーム&ウォッチ』を発売し、10年以上続いた任天堂の暗黒時代は幕を閉じました。また、1883年に据え置きゲームの『ファミリーコンピュータ(ファミコン)』を発売し、1985年には『スーパーマリオブラザーズ』が大ヒットを記録しました。

そして1989年には『ゲームボーイ』、1990年には『スーパーファミコン』を発売し、どちらも成功を収め任天堂は最盛期を迎えました。

その後はソニーが発売した『PlayStation』のヒットの影響もあり、任天堂は苦戦を強いられました。


誰でも遊べるゲームを!2000年代からの任天堂の戦略

2002年には山内溥が社長を退任し、岩田聡が就任しました。そして2004年に携帯用ゲーム機『ニンテンドーDS』、2006年に据え置きの『Wii』が発売となり、10数年ぶりとなるゲーム機市場トップシェアの座を奪還しました。

私は子供の頃からゲームが大好きでしたが、その頃は女子でゲームをするのはほんの一握りで、ましてや主婦やお年寄りにはゲームは取っ付きにくいものでした。

しかし、DSの脳トレーニングやWiiのスポーツソフトには私の両親も興味を持ち、『うちの母がゲームをするなんて!』と驚きを隠せませんでした。

グラフィックなどに関してはソニーの方が優れているとは思いますが、ゲームに触れたことのない層を取り込んだ任天堂の功績はすばらしいと思います。

また、今ではDSとWiiのそれぞれの後継機である『3DS』や『Wii U』が発売されていて、さらにゲームの可能性を広げているのではないかと感じています。

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